避暑のために早朝、神奈川県横浜市金沢区にある自分の別荘から、早朝長女の清子と散歩に出かけた様子を描いているのが、鏑木清方の「朝涼(あさすず)」です。当時八景と呼ばれる景勝地であった神奈川県横浜市金沢で、まだ月沈まぬうちの朝方の空気や、当時の娘の姿、また、道端に咲く花の美しさが丁寧に描写されています。
朝涼が描かれた時代背景
「朝涼」が描かれた大正14年は、関東大震災から2年が経過しており、東京都内は復興に向けて様々な動きがあったとされています。国内では日本初のラジオ放送が誕生し、様々な鉄道が開通を開始しました。25歳以上の男子全員に選挙権が与えられる、普通選挙法が公布されたのもこの頃です。また、海外ではムッソリーニがイタリアの独裁宣言を行い、上海で5・30事件が勃発していました。

関東大震災、京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋及神田方面の惨状。
190万人が被災、10万5,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されている。
wikipedia - 大阪毎日新聞社 - パブリックドメイン
作者 鏑木清方について
鏑木清方(1878~1972)は上村松園と並んで近代日本美人画家として知られ、日本最後の浮世絵師とも呼ばれることがあります。日本画の伝統を受け継ぎつつ新たな形に発展させて近代日本画の基礎を築き、日本の美術史に多大な影響をもたらしました。
彼の作品はほとんどが人物画ですが、単なる美人画家とは一線を画して評されているのは、明治期の東京の風俗を描き出した風俗画としての側面もあったからです。震災や空襲によって明治期の古き良き東京の風景は消え去りましたが、彼は自分が愛した東京の下町風俗や当時の美人画を描き続けました。
なぜこの作品を作ったか
やがて独立して小説家の泉鏡花とのコンビで挿絵画家として花形の地位を築いていきました。日本画の制作もこの頃スタートしています。
当時の清方はスランプ状態にありました。挿絵画家として出発した彼は、画家として名が知られるようになっても、文学と結びつきが強い、物語性のある絵を描いており、純粋な絵画として評価されないことから、自分の絵画の方向性に迷いを生じていたといいます。
しかし、この作品を描くことによって自分が画家としてどのような物を描きたいのか、どのような道に進むべきかはっきりわかりました。不朽の名作である「朝涼」を描くことによって、自分の進むべき方向性が明らかになったという点では、スランプ脱出につながった作品といえます。また、この作品によって美人画家としての名を得るようになりました。
朝涼をもっと深く知る一冊
作品に使われた特筆すべき技術・技法
日本最後の浮世絵師と呼ばれるだけあり、構図自体は浮世絵の構図となっています。朝早い中散歩をする長女の清子を描いた作品ですが、彼女の身に着けている着物の色は、後世清方ブルーと呼ばれる紫とも青ともつかない独特の色彩。
スランプから脱したと同時に、オリジナルの色彩まで生み出しています。上の方に沈む前の淡い月が描かれており、中断部分は夜明けの明るさを描いている為、早朝であることがわかります。少女は朝日に照らされて光に浮かび上がったように描いており、早朝を強調しているのがポイントです。背景は神奈川県横浜市金沢の田園風景で、少女の背後に見えるのは蓮の花となっています。東京だけではなく、神奈川の風景を描くことによって、少女の姿をよりいっそう印象付けようとしているように見える作品です。
朝涼の魅力
日本人独特の浮世絵の構図でありながら、近代的な朝の風景を描いた作品として知られる「朝涼」は、第6回帝国美術院美術展覧会に出品し、好評を博しました。日本独特のパステルカラーである清方ブルーや、美しいだけではなく内面をも描こうとする画家の筆力などを高く評価する声が多いです。美しく幻想的な風景で多くの人を魅了し、今までの作品とは一線を画す美人画家としての地位を得るに至った作品といえます。
挿絵画家から美人画家として転身するきっかけとなり、現在でも不朽の名作として高く評価されている鏑木清方の「朝涼」は、美しい早朝の風景を描き切った作品です。ただ単に清楚で品格のある女性を描くだけではなく、少女の髪形や帯・着物の柄などから当時の風俗を伝えるため、オリジナルの色彩を使って細部にこだわりぬいた作品といえます。
"Editor's voice"
鏑木清方の絵を初めてみたのはサントリー美術館で行われた「清方/Kiyokata ノスタルジア」展で、なんて美しい絵を描く人なんだろうと本当に感動した覚えがあるのだが、調べてみるとノスタルジア展は2009年開催ということで、もはや10年以上前の出来事。月日が経つのはなんて早いんだという当たり前のことと、ある部類の芸術作品が残す鮮烈な記憶は年月を超えて残っていくんだなぁという2つのことを同時に考えさせられた。
個人的に清方は一番好きな画家で、淡い色合いと控えめな表現で描かれるシンプルな美しさが非常に好み。この人の絵を嫌いな人ってまぁいないのではというくらい、単純に綺麗な絵なんだと思う。ただ、そのシンプルな表現の中にも、じつは挿絵画家時代に研究した物語性の強い表現というのがどこかに溶け込んでいることで、ここまで名声を得るようにになったのかなぁ、なんてことを思いました。
朝涼が収蔵されている鎌倉にある鏑木清方記念美術館は、清方が最後に住んでいた旧居跡に建てられた美術館で、ひっそりと静かで素敵な美術館なのでおすすめです。- Muneaki Suzuki
朝涼が収蔵されている美術館
清方の他の作品を楽しむ一冊
参考文献 ・図録『清方ノスタルジア』 名品でたどる鏑木清方の美の世界 - 鏑木清方 画,サントリー美術館 編 ・鏑木清方原寸美術館 100% KIYOKATA! (100% ART MUSEUM) - 鶴見 香織 ・鎌倉市鏑木清方記念美術館 WEBサイト http://www.kamakura-arts.or.jp/kaburaki/