太宰治 人間失格を解説 – 果たして彼は「失格」であったか

1948年に執筆された『人間失格』は、言わずと知れた太宰治の不朽の名作です。第三者による主人公の印象語りから始まるこの作品は、その後主人公の幼少期、青年期、青年期以降廃人となるまで、とストーリーが展開していきます。自らの人生を「恥の多い生涯を送ってきました。」と語る主人公の姿は、読む人によってかなり違う印象を与えることでしょう。

作者の自伝とも、遺書とも語られる代表作

太宰治の代表作であり、日本文学の中でも重要な作品として位置づけられている『人間失格』。実はこの作品は、作者の「自伝」あるいは「遺書」であるとしばしば語られています。実際に『人間失格』は太宰治が残した最後の完結作品であり、彼はこの作品を脱稿した一か月後に入水自殺を果たしています。作品の主人公である「葉蔵」に、太宰治本人と多くの類似点が見られることも、この作品が作者の遺書、あるいは自伝であると語られる理由となっています。東北の裕福な家庭の出身である、左翼思想に触れ酒や薬で身を持ち崩していく、そして複数の女性たちと自殺を試みる。太宰が自らの人生を元に作品を書き上げたことは疑いようがないでしょう。

脱稿直後に作者が自殺したことから、長く作者の「遺書」のような小説であると考えられてきた本作。実はこの後に『グッド・バイ』を執筆しているもののこちらは未完であり、自伝的箇所が多いことからも、この作品は死を間際に勢い任せに書かれたものだと長く考えられていました。しかし1998年に遺族が本作の草稿を発見し一般に公開。200字詰原稿用紙157枚に及ぶ草稿では、言葉の一つ一つに至るまで丁寧な推敲が何度も行われており、長い年月を経て作者がこの作品をフィクションとして書き上げたことを明らかにしたのです。

恐怖と不安を抱える主人公像

同じく代表作である『津軽』が希望に満ちた明るい作品であるのに対し、『人間失格』は全編に渡って暗い空気が付き纏う作品です。主人公である「葉蔵」は、裕福な家庭に生まれながらも常に不安と恐怖を感じていました。人間の営みや幸福が分からない、他人が理解できないといった悩みが、常に彼を不安定な精神状態に追いやっていたのです。

作中ではかなり誇張された表現がなされているものの、他人の気持ちが分からず苦悩する、不安になるという悩みは多かれ少なかれ誰でも持っているものです。「葉蔵」は悩んだ末「道化」を演じることで他人とうまくやっていこうとしますが、相手に合わせて振る舞うことも決して珍しいことではありません。作中では薄気味悪い道化師として描かれている「葉蔵」の「道化」ですが、それは何も特別な行為ではない。では「人間失格」となった「葉蔵」と、「正常」である読者の間にあるものは何か。そうしたことを考えさせられるポイントでもあります。

不安と恐怖の出所

「葉蔵」は極めて繊細で臆病な人間でした。そして非常に優しい人間でもあったことが、作品からは読み取ることができます。世間の人間が当たり前に行っている「自分を演じる」という行為も、彼にとっては極めて後ろめたく、絶対に見抜かれたくないことだったのです。実際に中学校の同級生「竹一」に道化を演じていることを看破されたとき、「葉蔵」は激しく動揺し、何とか彼を懐柔しようと躍起になります。こうしたことからも主人公の弱い部分を読み解くことができるでしょう。

また、主人公の悩みは哲学的な分野から始まっていることが見て取れます。裕福な家庭に生まれ育った彼は、空腹を知りません。それ故食べるために働く他人が理解できなかったのです。人間が難解なものに見える、他人が理解できずたまらなく怖いという感覚は、結局最後まで彼の人生に影を落とすこととなります。大人になり金に困って生活が破綻してからの主人公は、女性に依存していくことになります。人妻との心中未遂を引き起こし、シングルマザーのヒモになる。他人が怖くて仕方がないにも関わらず、他人に頼らなければ生きていけない。矛盾に満ちた姿は痛々しささえ感じさせます。

破滅へと向って行く男の悲しさ

様々な経験を経て世の中を以前ほど恐ろしいとは思わなくなった「葉蔵」は、「ヨシ子」という娘と結婚します。純粋無垢な彼女は他人を疑うことを知りません。心から自分を信頼してくれる「ヨシ子」となら、自分も人間らしく生きられるかもしれない。そう考えていた矢先、「ヨシ子」はその他人を疑わない気質のせいで他の男に犯されてしまいます。この事件をきっかけに「葉蔵」はこの世への期待一切を持てなくなります。「ヨシ子」の純粋さが頼みの綱だった、しかし彼女はその純粋さのせいで犯されてしまった。その絶望から「葉蔵」はアルコール、麻薬へとはまり込んでいき、最後には病院に軟禁される結末を迎えるのです。「ヨシ子」の迂闊さを責めることができれば、彼は破滅を迎えることはなかったかもしれません。

果たして彼は「人間失格」であったか

『人間失格』は大半が主人公である「葉蔵」の手記として構成されていますが、はしがきとあとがきは第三者の目線から語られています。特に注目したいのはあとがきです。「葉蔵」を知るバアのマダムは、彼を回想して「神様みたいないい子でした」と言います。第三者の目線を加えることで作品のリアリティを増す効果もさることながら、このあとがきによって果たして主人公は本当に「狂人」であり「人間失格」であったのか、読者が思いを巡らせる仕掛けとなっているのです。

“Editors Voice”

太宰治のすごいところは自分の悩み、弱さ、情けなさを隠すことなく表現できるところにあるのではないでしょうか。

太宰の小説を読んでいると、「これはまさしく自分のことだ」と思ってしまうことがあります。ごく個人的な体験や気持ちを書いているのに、なぜか万人の共感を得てしまう。そこに太宰作品の不思議な魅力があると感じます。誰しも自分以外にはなれないから、他の誰かが何をしていて何を感じたのか知りたい。そして、自分の体験や気持ちを重ねて共感したい。これは人間の根源的な欲求としてあると思いますが、太宰の小説はこの機会を我々に与えてくれます。また、一般的に太宰は暗いイメージを持たれることが多いと思いますが、短編集きりぎりすに収録されている「畜犬談」などではそのユーモアと優しさが存分に発揮されていたりもします。

その短編の「芸術は弱者の味方なんだ」という一文に太宰の優しさが表れています。

そんな太宰治が僕は好きなのです。 - Muneaki Suzuki

「人間失格」をもっと知る一冊

『女生徒』『斜陽』『人間失格』、そして『グッド・バイ』……生誕110年を迎える太宰治の魅力に多角的に迫る、永久保存版!伊藤比呂美、斉藤壮馬、安藤宏など。貴重資料も多数掲載。

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